「ああ、全く……。もう30分も経ってるのよ?」
「ほんと、何をやってるのかしらねえ?修理の人たちは……。」
婦人連れは相変わらず不平を洩らし続けていた。
その横で娘は、ただ黙ってうつむいていた。
否……、「ただ」ではなかった。
娘の様子には、一つだけ大変奇妙な、気になる点があるのだった。
娘は上で紹介した通り、大きく広がった愛らしいスカートを穿いていた。そして、そのスカートの下には、純白のストッキングに覆われた形良いふくらはぎが長く美しく伸びていた。しかし、その娘のふくらはぎは、実は先ほどから、せわしなく交互に摺り合わされていたのである。
白いハイヒールは右、左と交互に軽く浮かせられ、何やら落ち着きなくステップを踏んでいた。
エレベーターの中には冷房が効いていたものの、決して寒いわけでもない。それにもかかわらず、娘の両脚は、先ほどからガクガクと小刻みに震えつつ、落ち着きなく摺り合わされ、そして右、左とステップを踏んでいたのであった……。
一体、この美しい娘は何故、このように落ち着きを失ってしまっているのか……。
その答えは、娘にとって極めて恥ずかしいものだった……。
その答えとは……、
--娘は、尿意を催してしまっていたのである……。
「お嬢さん、どうも駄目ですね、この渋滞は……。」
ハイヤーの運転手は疲れたようにハンドルを握りしめたまま、フロントガラスの前方を見つめて後席の娘に言った。後席には薄桃色のドレスに身を包んだ美しい娘が、困惑した面もちで座っていた。
白石紀子美(きこみ)、23歳。
彼女は某大学教授の一人娘であった。
「紀子美」と書いたのは誤植ではない。彼女は変わり者の父親のため、妙な名前を付けられてしまったのである。
彼女の祖父は、天皇陛下の御前で御進講を任されるほどの大学者で、著書も多数を数える大人物だった。紀子美たち家族が住んでいる家は成城でも屈指の豪邸だったが、その家も祖父名義のものなのであった。
「ああ……、全然駄目ですねえ、こりゃあ……。」
ハイヤーの運転手は、しきりにボヤき続けていた。
それは、紀子美がエレベーターの故障に巻き込まれる数十分前のことであった。
友人の結婚披露宴に出席するため新宿のホテルへ向かっていた紀子美のハイヤーは、あと少しでホテルというところまで来て渋滞にはまってしまったのである。
先ほどから百メートルも動いてはいない。
紀子美は美しいドレスを着てハイヤーの後席に座りながら、何やらモジモジと両脚を摺り合わせ、フロントガラスの向こうを見ていた。
上品な化粧を施した紀子美の顔に、一筋の汗が伝う……。
実はこの時から、紀子美は尿意を催してしまっていたのだった……。
「おおっと!危ねえなあ……!」
その時、運転手はハイヤーを動かすなり、そう口走りつつ急ブレーキを踏んだ。
紀子美は思い切り身体を前にのめらされ、思わず両脚をふんばった。
紀子美の顔が苦痛に歪んだ。
「お嬢さん、どうもスミマセン……!」
運転手は後ろを振り向いて紀子美に謝った。
紀子美はあやうくの失禁を堪え、顔面を蒼白にしていた。
座ったまま出てしまいそうだった。
--こんなところでお粗相なんかしたら……!
紀子美の顔に大粒の汗が何粒も浮かび上がって来た……。
紀子美は祖父からの勧めもあって、毎朝たくさんのフルーツと水分を摂ることにしていた。この日の朝も、オレンジやパイナップルなど水分の多いフルーツ各種の他、ミルクティーを2杯、さらにミネラル水を五百ミリリットルも飲んで来ていた。「ミネラル水を五百ミリリットル」というのは尋常ではないが、それは祖父からの薦めを紀子美が忠実に実行しているもので、もちろん彼女の自発的なアイディアではなかった。
ところが、である。彼女が今日乗ったハイヤーには、それに加えて強烈な冷房が効いていたのだった。
その中に長時間座っていたのはいけなかった。
紀子美はやがて尿意を催してしまい、今や哀れにも失禁寸前の状態にまでなってしまっていたのである……。
ハイヤーは少しだけ進んでは、また止まってしまう。
紀子美は顔を苦痛に曇らせながら、両脚を摺り合わせ、左右の手では艶やかなドレスのスカートをそっとさすったりしていた。
顔面にはさらに数本の汗が伝って流れた。
紀子美は両脚を摺り合わせながら、横の座席に置いてあった白いハンドバッグを片手に取り、そしてスカートの上に置いた。彼女は、しばしそのバッグを両手で握りしめていたが、しかし、すぐにまたそれを元の座席に戻してしまった。
もはや、紀子美には自分が何をすれば良いのか分からないのだった。
彼女はスカートをさすり、握りしめ、そして両脚をせわしなく摺り合わせ続けた……。
「あの、あと、どのくらいで着くでしょうか……?」
紀子美は運転手に尋ねてみた。
「さあ……、何しろこんな渋滞ですからねえ……。どうでしょうねえ……。」
運転手の返事は絶望的であった。
その返事を聞き、紀子美の胸中にはある決意が固まって行った。
--もう、ハイヤーを降りてしまおう……。
しかし、紀子美には、「降ります」の一言が容易に言い出せなかった。
そんなことを言ったら、自分が尿意を催したことを運転手に悟られてしまうのではないか……。
紀子美には、その心配がナンセンスであることも分かっていた。しかし何となく、彼女はそんな心配を抱いていたのである……。
紀子美は両脚を摺り合わせ、高まって行く尿意を必死に堪えていた。
と、その時である……。
「お嬢さん……。」
運転手は急に後席を振り向いて紀子美に声をかけた。
うつむいていた紀子美はビクリとして顔を上げ、緊張した。
--尿意を悟られた……!?
紀子美は一瞬そう恐れた。
しかし、それは杞憂であった。
運転手は急に話題を思い出し、振り向いただけだったのである。
「お嬢さん、そう言えば、今思い出したんですけどね……、この間『文芸論壇』でお嬢さんの記事読みましたよ……。」
『文芸論壇』とは伝統ある月刊誌で、その巻頭に先月、紀子美たち家族がカラー写真付きで紹介されていたのである。
「お嬢さん、フルートをなさるんですねえ……。いや、あの写真のドレスも素敵だったけど……、今日のドレスも実に綺麗だなあ……。」
運転手は紀子美のドレスを見回しながら、雑誌に載っていたクリーム色のロングドレスを思い出し、比べていた。
紀子美は引きつった顔で精一杯微笑み、「いえ、そんな……」とはにかんで見せた。
「変な話だけど、そういうドレスっていくら位するんです……?いや、うちの娘にも買ってやりたいなあと思うんですけどね、いくらかかるんだろうってねえ……ハハハ……。やっぱ、私なんかには無理なのかなあ……。」
運転手の話は長引きそうだった。恐らく紀子美の退屈を紛らすためのサービスのつもりなのであろう。しかし、尿意に苦しむ紀子美にとっては、一種、拷問であった……。

抜ける官能小説
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