「あ、あの、運転手さん……。」
紀子美は話を遮ることの罪悪感と、それに先ほどから感じていた羞恥との両方のため胸をドキドキさせつつも、勇気を振り絞って運転手に言った。
「はい……?」
運転手は笑顔で応答した。
紀子美は運転手の顔を見ると一瞬躊躇して黙ったが、しかし彼女は両脚を摺り合わせつつ、思い切って言った。
「あの、すみません……、私、ここで降ろしていただけますか……?」
運転手は「え?ここで?」と意外そうな顔で言った後、「でも、まだホテルまでちょっとありますよ……?」と付け加えた。
「ええ、でも、いいです……。ここで降ろしていただけませんか……?」
紀子美はそう言いながら、早々と片手でバッグを取り、もう一方の手はドアへとかけた。
彼女はもはや完全に降りる体勢だ。
紀子美の両脚はせわしなく摺り合わされていた……。
すると運転手は、その紀子美の両脚にチラリと目をやり、それから彼女の顔を見た……。
(……!!)
--気付かれてしまった……!?
紀子美はドキリとして運転手を見た。
それは残念なことに、先ほどとは違い、杞憂ではなかった……。
運転手はその時、一瞬、少しの驚きをもって全てを了解したような、そんな表情を紀子美に見せた。そして「そうですか……」と速やかにインパネへと振り返り、彼はハザードを点灯させたのだった……。
--どうしよう、私……。
(……ハズカシイ……!)
紀子美の全身は一気に熱くなって行った。
彼女は、あれほど知られたくなかった恥ずかしい尿意を、ついに運転手から悟られてしまったのだった。
紀子美の色白の顔は、みるみる真っ赤に染まって行った……。
「ホテルまでの道、分かりますよね……?」
運転手はドアを開けると、再び紀子美を振り返って言った。
紀子美は顔を真っ赤に染めたまま運転手の顔も見ず、「はい……。どうも、すみません……。」と言い、ハイヤーを降りて行った……。
--こんなのって……!
--恥ずかしい……!
ハイヤーから降りた紀子美は全身を羞恥に熱く火照らせつつ、小走りに歩道の方へと足を進めた。
太ももまでが熱く火照っていた。
トイレに行きたくてハイヤーを降りてしまうなんて……。
--こんなのって……!
--恥ずかしい……!
その時、ハイヤーの中から運転手が紀子美に声をかけた。
「クルマ、気を付けて下さいね、お嬢さん……!」
紀子美は、その「お嬢さん」という言葉を聞いた途端、胸に一層の羞恥が沸き上がるのを感じた。
--「お嬢さん」だなんて……!
(呼ばないで、お願い……!)
紀子美の美しい目が急速に潤んで行った……。
〃白石教授のお嬢さんが、トイレに行きたくなってハイヤーを降りてしまった…。〃
〃オシッコしたくなってしまったお嬢様。〃
〃だらしのない御令嬢。〃
〃あのお嬢さん、家を出る前にトイレにも入って来なかったらしいぜ……!〃
紀子美は白かった耳をトマトのように赤く染め、哀れなほどに恥じ入っていた。
--おトイレには入って来たけれど……、
--私、毎朝いっぱい、お水を摂るようにしているんです……。
--ハイヤーの冷房が強くて……、私……。
紀子美は運転手に対する虚しい言い訳を、あれこれと心の中で叫んでいた。
まさか、紀子美の心配が的中してしまおうとは……。
紀子美は2度とハイヤーを振り返ることはせず、走りづらいハイヒールの足で、小走りに歩道の上へと出た。そして人通りの多い休日の歩道の上を、彼女は白いハンドバッグ片手に走り始めた……。
--ホテルは確かこちらの方向だった……。
紀子美は広がったスカートを左右に大きく揺らしながら、コンクリートの歩道の上を走り始めた。彼女の足下では白いハイヒールがコツコツとせわしなく音を立て、髪の後ろでは一杯のかすみ草が上下に細かく揺れていた。
紀子美の周りでは、人々が皆、彼女の方へと視線を向けていた。
トイレ目指して人前を走っている、はしたない自分……。
--ドレスを着て、おめかしした姿だというのに……。
紀子美はあまりの惨めさに、涙が出そうであった。
白い便器と放尿の瞬間……。
彼女の頭には、そんなものばかりが浮かんでいた。
--こんな、はしたないこと……。
--私……、
--もう、お嫁に行かれない……!
紀子美の胸には強烈な羞恥が駆け巡っていた……。
ホテルはまだ全く見えて来ない。
しかし、紀子美の尿意はぐんぐんと強まっていた……。
--ああ、出ちゃう……!
--もう、出てしまう……!
スカートの広がった愛らしいミディドレスに身を包んだお嬢様は、ハイヒールの走りにくい足で精一杯に歩道を走った。
--もう我慢できない……!
--どうしよう、もう出てしまう……!
いざハイヤーを降りてみた紀子美は、自分の尿意が思った以上に切迫していたことに今更ながら気付いた。
ただでさえハイヒールで走りにくい上に、あまり急ぐと尿が洩れてしまいそうである……。
紀子美は不自然に内股になりながら、ヨタヨタと歩道を走らざるを得なかった……。
--ああ、こんなひどい格好……!
--恥ずかしい……!
--見ないで下さい……!
紀子美は顔中に汗をかきながら、人々の視線の中を必死に走った。
と、その時。紀子美は前方にMSビルの建物を認めた。
そこは大学時代、紀子美が友人たちとお茶を飲みに来たところだった。
--あそこならトイレが使える……。
紀子美は以前、友人たちと来た際に、そのビルのロビーにある公衆用トイレを使ったことがあった。
彼女はそのトイレを再び借りようと、とりあえずMSビル目指して無様に走って行った……。
MSビルのロビー階では、やはり人々が皆、紀子美の方へと視線を向けた。
ただでさえ人目を引く華やかなドレスを着た美しいお嬢様が、ハイヒールの音もけたたましく、何やら必死の形相で走っているのだ。
髪の後ろには一杯のかすみ草。
首周りには3重に巻いた真珠のネックレス……。
人々が注目するのも当然であった。
--たしか、この奥にトイレがあった筈……。
紀子美は顔中に汗を流し、ドレスの裾を乱しながら、無様な格好でヨタヨタと必死に走って行った。
そして間もなく、紀子美はトイレへと到着した。
しかし……。
それは不運なことだった……。
そのトイレの入り口には、何と「清掃中」の立て看板が出ていたのである……。
紀子美の顔は、焦りと絶望とで引きつった。
紀子美はすぐに周りを見回してみた。
すると、彼女の左前方で、展望エレベーターのドアが今、開くのが見えた。
--最上階のレストラン街にも、きっとお手洗いがある筈……!
紀子美は思わず走り出し、そのエレベーターの入り口を目指した……。

抜ける官能小説
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